マレフィセントをデートに活用する方法 [恋愛]

男が頼りない信頼できない存在に描かれているからデートに向かないと言っている人がいるようです。
そうでしょうか。おそらくその感想を持つひとは、ひとりで映画を見るタイプです。
浸りこむタイプでしょう。
ヒーロー映画を見ると自分がその主人公になった気分になって肩で風切って外に出るような。

「タクシー・ドライバー」みたいに、みじめにみっともなくて暴走して、意図せずに最後に英雄になってしまうバカものの映画なんかがデートには不向きだと思うのでしょう。
主人公の、ロバート・デ・ニーロのやるあの男は楽しみというとエロ映画ばかりで、あとはテロ行為にあこがれる。

あの映画は、テロリストを気取ろうとしてたら、でたらめな生活をしているジョディ・フォスターと出会い、やくざから守ってしまうという形になってしまったという結末で英雄になってしまうのです。
そもそもヒューマニズムだとか、子供の保護とかそういうきれいごとはなかった。

人生ってそういうところがあるじゃないですか。
ふたりでそういうことを語り合えたらデート向きの映画じゃないでしょうか。

チャン・イーモウの「あの子を探して」という、小学校の代用教員をしている少女が、登校してこない幼女を探している行動が評判になってしまう話は、設定は「タクシー・ドライバー」と同じプロットといっていいでしょう。
あの少女は、生徒がいなくなると自分の立場も給料もなくなるから、みっともなくもそのいじましさでした行動なんです。
教え子への深い愛だとか、教育に対する情熱ではない、自分勝手な行動だったのです。

もしこの二つの映画の類似点を話題にできて、ふたりで話ができたら、自分勝手な行動が他人から尊敬されてしまう構造の話で一晩ぐらい語り明かせます。
偽善になってしまう行動と何が違うかを話したら、お互いに相手を他人とは違うものだとはっきり意識できます。

デートって、お互いの視点や発見を共有しながら相互に尊敬の念をもったりするのが目的ではないですか。
それがいらないなら映画なんかみないでホテルにでもいったらいいだけです。そんなことはないでしょう。

マレフィセントの話にしましょう。

これは、形をつけてかっこよくやろうと考えている男が見事に失敗というようなことが起こります。
でも立ててやらないと話は終わらないし、終わらせるためにはそのぶざまさを受け入れて、ぶざまでないように見せてやる努力がムダではないのです。
大体若僧はそんなふうに年寄りから立ててもらうことで、ひとりで成長したようにエラソーになっていくのです。
それでいいじゃないか、そのときにあいつは鬼だったといわれてもいいじゃないか、そういう結末がはいっているのではないでしょうか。

何も悪気はないのに、大人の都合で悪者にされ邪悪な存在呼ばわりされ、大事なものを取り上げられたりして鬱にならないで人生を送るにはどうしたらいいのか。
呪いのような悪口を吐きにいったらすこしは気が晴れるんじゃないでしょうか。
そうしたら、その悪口のつじつまを合わせるような行動をするべきじゃないでしょうか。

夢の存在だとおもわれているような妖精たちがカッコばかりの無能集団でがっかり。ああバカばっかりだ。
それをサポートしてやれば、誰ひとりほめないけど自分の存在価値は自分でみとめられるじゃないか。
人を助けるというのは、結局自分をすくうことなんだね。

そんな話をカップルがしたら、とても素敵だと思います。
そういうことを語り合える二人は、その後の人生で家庭内離婚だとか定年後ぬれ落ち葉亭主は粗大ごみというようなことはおこらないのじゃないかと思いますがどうでしょうか。



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